司馬遼太郎

1 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 21:43:12.70
 
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきつつ読み進めてまいります。
ただいま「国盗り物語」が進行中。

 

 

4 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 21:53:54.70
 
>>1
12 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 23:04:44.10
 
>>1
新スレッドになると同時に元号が変わり、元亀争乱の開幕というのは、味な真似だね。
3 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 21:52:08.90
 
【1】〔数年後に削除予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1362974282/
【2】〔数年後に改訂予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1471228785/
【3】「街道をゆく」豊後・日田街道/大和丹生川(西吉野)街道/種子島みち/潟のみち/播州揖保川・室津みち/高野山みち http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1474718092/
【4】「街道をゆく」信州佐久平みち/「国盗り物語1」http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1477812018/
【5】「国盗り物語2」http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/
【6】「国盗り物語3」http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1483152411/
11 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 23:00:28.09
 
▽天筒山城
金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城である。金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている。
元亀元年(1570)4月25日、織田軍に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが、城は陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。
現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。
http://www.kepco.co.jp/corporate/profile/community/wakasa/ew/tanpou/__icsFiles/artimage/2012/04/25/c_kpc808/8-02.jpg
http://art25.photozou.jp/pub/225/254225/photo/78122015_624.jpg
http://www.hb.pei.jp/shiro/echizen/tenzutsuyama-jyo/indexb.jpg
18 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 20:35:13.24
 
元亀元年(1570年)4月の織田信長の越前侵攻の際、金ヶ崎城に籠城するが、4月26日に織田軍の猛攻を受け、信長の降伏勧告を受け入れ開城する。
そのため他の一門衆から「不甲斐無し」と非難され、永平寺に遁世し、失意の内に9月28日に死去した。
25 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 22:23:11.77
 
府中城は、JR武生駅前〜武生市役所一帯が城跡だが、今では武生の街のメインストリートとなり、城は跡形もない。
ここに城があったことは、越前市役所玄関脇に「越府城趾」の石碑だけが物語っている。
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/etizenfutyu_02.JPG
40 :
国盗り物語
2017/03/03(金) 15:53:34.27
 
第57章 退却

「十兵衛殿、あれは捨ておけませぬな」
と家康は、弾雨のなかでいったのである。
「あれとは?」
「木下殿のことでござるよ」
家康のいうのは藤吉郎をこの戦場に置きすてて自分たちだけが退却するに忍びないというのだ。
(自分こそ信長に置きすてられた男ではないか)
光秀はちらりと思った。家康という男は、三河の篤実な農夫といった面があり、ひどく律儀で、こぼれるほどの人の好さをもっていた。

46 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 16:41:24.36
 
▽粟屋越中守
粟屋勝久……若狭国国吉城主
粟屋氏は清和源氏安田氏の末裔で、若狭国守護の若狭武田氏の被官。
当時、若狭武田氏は、旧守護の武田信豊と、その子で現守護の武田義統が対立する内乱状態にあった。領国の統治に窮した義統は、婚姻関係のある越前国守護朝倉氏に援軍を要請する。
朝倉氏の軍勢を若狭国に入れることに反対する粟屋勝久は、義統の子・武田元明を擁立して抵抗し、朝倉氏が若狭国へ侵攻するとこれを撃退した。しかし永禄11年(1568年)、朝倉氏によって武田元明は囚われて越前国に連行され、一乗谷の朝倉館に軟禁されることとなった。
47 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 16:41:37.90
 
朝倉氏による若狭国支配が始まったが、粟屋勝久はその後も武田氏家臣として単独で国吉城に籠し朝倉氏に抗する。
織田氏の勢力が拡大すると、元亀元年(1570年)、他の若狭国人衆と共に織田信長に協力した。
織田信長が越前国へ出兵した際には、国吉城は信長の宿所となった。
48 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 16:45:14.68
 
▽朽木元綱
天文19年(1550年)に父・晴綱が戦死したため、わずか2歳で家督を継承した。
天文22年(1553年)、三好長慶に京都を追われた13代将軍・足利義輝を父に引き続き朽木谷に匿った。
永禄9年(1566年)の浅井長政による近江国高島郡侵攻に際しては人質を差し出し、永禄11年(1568年)12月には浅井久政・長政父子と起請文を交わしたが、まもなくこれを破棄している。
元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助け、後に信長に仕え、信長麾下として磯野員昌、その追放後は津田信澄に配されている。
49 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 16:46:27.29
 
関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属したものの、小早川秀秋に呼応して脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らとともに東軍に寝返った。戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により減封(9,590石)された。
55 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 20:25:14.65
 
▽気比の松原
福井県敦賀市の景勝地である。三保の松原(静岡県)・虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つで、昭和9年に国の名勝に指定されている。
また、若狭湾国定公園の一部である。
http://www.rinya.maff.go.jp/kinki/koho/invitation/fukui/img/10.jpg
http://www.turuga.org/places/kehimatsubara/images/kehimatsubara_subimage_05.jpg
http://www.turuga.org/places/kehimatsubara/images/kehimatsubara_subimage_04.jpg
72 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 21:52:28.04
 
このような久政の弱腰の外交政策に、家臣たちの多くが不満をもつようになったとされる。
永禄3年(1560年)に嫡男賢政(長政)が野良田の戦いで六角義賢に大勝したことで浅井氏が六角氏から独立すると、久政は家臣たちにより家督を長政に譲ることを迫られ、いわば強制的に隠居させられることとなった。
73 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 21:54:02.03
 
久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけており、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたとされる。
織田氏と朝倉氏が対立を深めると、両家と同盟関係にあった浅井家はどちらにつくかの決断を迫られたが、久政は強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れる形で義兄でもある信長に反旗を翻すが、数年間の抵抗の末、浅井・朝倉連合は織田氏に敗北する。
74 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 22:03:09.58
 
▼京極氏
京極氏の源流である佐々木氏は、鎌倉時代以前より近江にあり、近江源氏と称された家系である。
鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に任じられていた佐々木信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせた。
このうち、江北にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の6郡と京都の京極高辻の館を継いだ四男の氏信を祖とする一族が後に京極氏と呼ばれるようになる。
なお、この時に江南を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ、六角氏の祖となっている。
長男の重綱と次男の高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、それぞれ大原氏・高島氏の祖となった。
79 :
国盗り物語
2017/03/05(日) 17:07:39.77
 
第59章 千種越

この山中、かつて南近江の国主でいまは近江甲賀郷に流亡している六角承禎(佐々木義賢)が放った男が、信長を狙撃している。
男は、鉄砲集団で知られた紀州根来の行人で、頭は有髪、白衣を着、笈を負った扮装をし、得意の鉄砲に二つ弾をこめて樹間にかくれていた。
名は杉谷善住坊といった。
狙いをさだめて轟発したところ、弾は二つとも信長の姿に吸いこまれたが信長のからだにはあたらず、袖に穴をあけた。

82 :
日本@名無史さん
2017/03/05(日) 17:43:23.25
 
▽柳ヶ瀬
旧伊香郡余呉村柳ヶ瀬 →長浜市余呉町柳ヶ瀬……余呉よりもさらに北。ド田舎。
美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」は、岐阜市の柳ヶ瀬商店街のことだから無関係です。
最初は「長岡ブルース」として作詞・作曲をした宇佐英雄氏自身が歌っていましたが、
のちに美川憲一が題名を変え「柳ヶ瀬ブルース」としてカバーしました(昭和41年4月1日リリース)。
http://www.officiallyjd.com/wp-content/uploads/2012/08/20120823_odayuuji_11.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/hatox/imgs/3/a/3aa301d8.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=xWV9OEMidmQ
100 :
日本@名無史さん
2017/03/05(日) 20:59:11.74
 
その末裔が、磯野サザエであることは、言うまでもない。
113 :
日本@名無史さん
2017/03/05(日) 22:52:51.44
 
▽菅谷九右衛門
菅屋長頼……織田信長の側近。織田信房の子。司馬氏は織田信辰の子としている。
調べ物の際に司馬氏が眼鏡をかけわすれたか、校正者が見落としたかのいずれかである。
ちなみに、織田信辰は、天文13 (1545) 年、織田信秀が美濃に侵入し大垣城を織田氏のものとした際に、城主として入城した、あの織田信辰である。
織田信辰は、織田の名字を名乗るが織田一族ではなく、信房の祖父である岸蔵坊が織田姓を賜ったと伝えられる。
『信長公記』においては小豆坂の戦いで主君信秀の弟たち(信康、信光、信次)の次に名が挙がっており、太田牛一には一門扱いをされているようである。
256 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 21:22:51.40
 
▽長引く包囲戦
延暦寺が浅井・朝倉勢の味方をしたことにより、織田軍は早期決戦を行うことができなくなり、明智光秀、佐久間信盛を主将として美濃・近江の国衆を中心に比叡山を包囲することになった。
この間も摂津では三好三人衆が活動しており、長引く不利を悟った信長は、包囲が1ヶ月に及んだ10月20日になって菅屋長頼〔>>113〕を使者を立てて朝倉勢に決戦を促したが、黙殺されたという。
120 :
日本@名無史さん
2017/03/05(日) 23:28:54.19
 
▽鶴料理
司馬氏は、「室町風の鶴の料理」と書かれているが、どうやら怪しい。
長寿のおめでたい鳥として、年始の吉例として鶴を調理し、これを朝廷や幕府で用いるようになったのは、江戸時代初期よりである。
秋冬に捕獲した鶴を、初鶴として朝廷に献進する事例は、豊臣秀吉が始めたという。
御厨所の高橋家と大隅家の両家が隔年交代で、衣冠を着用して料理にあたる。
鶴の両羽をしごき、次ぎに両翼を切り取って案の上に十文字に置き、次いで両足を切って案の下に掻き落とし、さらに首を切って十文字に置いた両翼の上に置くと「千」の字形となり、これを「千年切り」または「万年切り」と称する。
それから肉を二段に調理して終わり、清涼殿の階下で太刀折紙を戴いて退出するとある。
http://ecx.images-amazon.com/images/I/4153QT-TCzL.jpg
130 :
日本@名無史さん
2017/03/07(火) 21:25:46.87
 
▽横山城
近江国坂田郡(長浜市堀部町)
永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。
その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。
http://www.geocities.jp/hokuriku1970/yokyama2.jpg
http://www.oumi-castle.net/second_page/yokoyama/tensyu.jpg
http://www.oumi-castle.net/second_page/yokoyama/odani.jpg

 

 

135 :
日本@名無史さん
2017/03/07(火) 22:08:54.11
 
林秀貞は、信長に赦免された後は、それまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人等の外交や行政面の中心人物として活躍した。
秀貞は軍人というよりは政治家であり、信長が発給した政治的文書には常に署名している。そのため武将としての派手な活躍機会は非常に少ない。

しかし、政治的には信長から重きを置かれており、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、信長の重臣と義昭の重臣が起請文を交わした際には、秀貞が1番に署名している
天正3年(1575年)11月に家督が織田信忠に譲られるとともに信忠付となった。
与えられた所領の面では柴田勝家・佐久間信盛・明智光秀・羽柴秀吉などに追い抜かれていくが、その後も重臣筆頭としての地位を保っていた。

140 :
日本@名無史さん
2017/03/08(水) 18:50:08.12
 
▽簗田広正(政辰)
簗田政綱の子。のちに別喜姓(戸次姓)を下賜されて、別喜右近(戸次右近)と名乗っている。
尾張九之坪城と沓掛城の城主。
元亀元年(1570年)の浅井攻めでは小谷からの殿軍を務めた。
天正3年(1575年)、朝廷からの叙任で羽柴秀吉・明智光秀や塙直政らに混じって叙位任官を受けて右近大夫となり、九州の名族である別喜(戸次)の姓を下賜された。
天正4年(1576年)に加賀国の旗頭になり、大聖寺城を与えられて加賀一向一揆の討伐に当たる。しかし兵力が不足し、調略もうまくいかず、討伐は失敗し、尾張国に召還された。
天正6年(1578年)、織田信忠に属し、別所長治の反乱に対応している。
499 :
日本@名無史さん
2017/03/16(木) 19:33:14.69
 
簗田広正については、>>140を参照せよ。
146 :
日本@名無史さん
2017/03/08(水) 21:21:31.23
 
天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いが発生すると、秀吉方につく姿勢をみせていたものの、夏頃になって徳川家康および織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家の末森城を攻撃した(末森城の戦い)。
この時期は越後国の上杉景勝とも敵対していたため、二正面作戦を強いられ苦戦が続いた。
秀吉と信雄との間で和議が成立して家康が停戦すると、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破し、家康に再挙を促した(さらさら越え)。 しかし家康の説得に失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかった。
150 :
日本@名無史さん
2017/03/08(水) 21:33:54.64
 
竜ヶ鼻砦……滋賀県長浜市堀部町(石田山公園)
信長は、横山城の北の尾根端にある竜ヶ鼻に陣を移し、南方の尾根続きにある横山城の攻撃を行った。
浅井長政を平野部に引き出す為の作戦であったと言われている。
http://www.geocities.jp/hokuriku1970/tizuanagawa4.jpg
158 :
日本@名無史さん
2017/03/08(水) 22:28:12.78
 
▽阪井政尚
坂井政尚……『信長公記』に見える清洲織田氏の家老・坂井大膳の坂井氏と同族と思われる。
『武家事紀』および『太閤記』によれば、はじめ美濃斎藤氏に仕えていたが、織田信長に転仕したとされている。
信長に仕えた時期は不明であるが、『信長公記』には永禄11年(1568年)9月28日に勝竜寺城の岩成友通を攻める時、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成と並ぶ大将として出てくるのが初見である。
永禄12年(1569年)の伊勢攻略戦にも参陣しており、大河内城攻めの際には一手の大将として名前が見える。
258 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 21:38:30.32
 
▼堅田の戦い
11月25日、堅田の猪飼昇貞らが織田方に内通したので、信長は坂井政尚〔>>158-159〕の1千の兵を堅田砦に侵入させ、西近江の物流の差し押えを狙った。
しかし朝倉軍も素早く坂井政尚の堅田入りを察知し、翌26日には朝倉景鏡・前波景当らが比叡山より下って堅田に攻め寄せた。
坂井政尚軍は孤立したが奮戦し、前波景当を返り討ちにするなどした。
しかし結局は織田軍は壊滅し、坂井政尚は戦死した。
内通した猪飼らは船で琵琶湖を渡って逃走し、この試みは失敗に終わっている。
162 :
日本@名無史さん
2017/03/08(水) 22:55:11.08
 
▽五番隊 森可成
「斎藤道三の家来で、斎藤家滅亡後、信長がまねき」と、うそばかり書いている。
森可成は美濃守護土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文23年(1554年)に尾張国で織田信長に仕えた。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力した。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも参陣した。
永禄8年(1565年)に美濃金山城(兼山城)を与えられ、信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め(勝竜寺城の戦いなど)、上洛後には近江宇佐山城を与えられた。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参戦。勢いにのって突撃してきた磯野員昌隊の進撃を阻止するなどの活躍する。
ただし、司馬さんは「森可成の隊までが崩れ立ちはじめた」としている。
243 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 20:13:23.96
 
▽森可成〔>>162〕
「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、九天九地の下を通り、終日合戦なり。浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」とある。享年48。
※森三左衛門:佐竹明夫 http://livedoor.blogimg.jp/donzun-actors/imgs/d/6/d6468015.jpg
174 :
日本@名無史さん
2017/03/08(水) 23:44:51.33
 
朝倉の第二陣・前波新八郎というのも怪しいな。
姉川の戦いで、数時間に及ぶ激闘の末、徳川軍に討ち取られた。
『信長公記』には、他国まで名の聞こえた将の一人として記されているが、その出自など、詳しいことは不明である。
179 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 00:09:04.99
 
姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していた重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的な武将が戦死した。
朝倉氏では真柄直隆、真柄直澄、真柄隆基らが討死した。両軍は戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出した。
一方、初期戦闘で苦戦した織田方では坂井政尚の嫡子である尚恒らが戦死している。
199 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 15:42:40.83
 
堀久太郎秀政とは、もちろん同姓同名の別人です。念のため。
211 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 16:41:25.94
 
▽少輔ノ局
上野清信の娘。痩せた小柄な女。義昭のお気に入り。
父の官職が中務少輔なので少輔ノ局というのだろう。
「さこの方(お慶)」が現在何をしているかにはまったくふれられないまま、寵姫の変更は終了しました。
239 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 19:55:19.61
 
★志賀の陣

▽志賀の陣
元亀元年(1570年)9月16日から12月17日にかけて発生した織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦いをいう。
野田城・福島城の戦いで信長が摂津戦線に釘付けとなっていることを奇貨として、浅井長政、朝倉義景は京都に向けて押し出すべく、手薄な琵琶湖西岸を南下した。
ここに、志賀の陣は始まった。

247 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 20:27:21.54
 
▽比叡山籠城
一方、信長が転進してきたことを知った浅井・朝倉勢は比叡山へ後退した。
9月24日、信長は逢坂を越え、坂本まで来て、比叡山を包囲した。
信長は比叡山延暦寺に対して「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告したが、延暦寺からの返事はなかった。
浅井・朝倉軍は延暦寺の支援のもと、比叡山に籠城することになった。
252 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 21:13:47.66
 
▽四面楚歌
信長が比叡山包囲のため身動きがとれなくなっていることを知った各地の反織田勢力は、この機に一気に挙兵することになった。
【1】六角義賢が近江の一向門徒とともに南近江で挙兵し、美濃と京都の交通を遮断した。
……木下藤吉郎、丹羽長秀は、横山城で浅井軍が南下しないように守備していたが、一揆勢が美濃と京都の交通を遮断したことに対して、これを回復すべく11月上旬に出陣している。
木下、丹羽の両勢は、11月16日までに、六角軍や一揆勢を破って交通を回復させたようである。
264 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 22:07:44.65
 
司馬氏は降雪によって叡山の朝倉軍の補給が途絶すると書かれている。まあ、半分は当たっている。
しかし、>>252で述べたように、木下・丹羽の両勢が、11月16日までに、六角軍や一揆勢を破って、大津に滞陣する織田軍の補給を回復させたことがより大きい。

 

 

253 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 21:15:16.14
 
【2】伊勢長島では、顕如の檄を受けた願証寺の門徒が、一向一揆を起こしている。
……11月21日には、長島門徒の攻撃を受けた尾張小木江城で、信長の弟織田信興が討死している。
【3】三好三人衆は野田城・福島城から打って出て京都を窺っているが、これは和田惟政が奮戦して食い止めている。
269 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 22:25:14.76
 
信長は南近江の拠点は守りきったものの、当初の目的である野田・福島攻めを中断された上、弟の信治・信興や家臣の森可成、坂井政尚といった武将を失う結果に終わった。
また、この戦いの隙をついて各地で反織田の挙兵があったこと、足利義昭が信長の影響下から脱そうとしてこれらの勢力を糾合し信長包囲網を敷いたことにより、以後信長はこの包囲網と戦う事を余儀なくされた。
この状況は元亀4年(1573年)4月に、包囲網の重要な一角を担った武田信玄が病死するまで続くことになる。
 
277 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 23:41:27.21
 
【2】第二次長島侵攻
天正元年(1573年)8月に浅井長政・朝倉義景を滅亡させた後、9月には信長は二度目の長島攻めを各将に通達した。
【3】第三次長島侵攻
天正2年(1574年)6月23日、信長は尾張国津島に移り、三度目の長島攻めのため大動員令を発した。
明智光秀や羽柴秀吉など一部を除いて主要な将のほとんどが参陣し、7〜8万という織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれた。
信長は、火攻めにした。城中の2万の男女が焼け死んだという。
こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。
280 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 23:59:42.84
 
天正元年(1573年)11月、つまり足利義昭追放の翌月、三好義継は佐久間信盛に攻められ敗死する(若江城の戦い)。
松永久秀は、同年12月末、織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。
三好三人衆も信長に敗れて壊滅し、信長包囲網は瓦解した。
翌天正2年(1574年)1月、久秀は岐阜で信長に謁見、筒井順慶も信長に服属している。
以後、久秀は石山合戦の指揮官である佐久間信盛の与力とされたが、目立った動きはない。
299 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 10:21:02.87
 
▽山岡玉林という地に野戦本陣を据えた。
人名が地名になっとりますわw もうわやくそwww
9月11日、信長は坂本の三井寺周辺に進軍し、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いた。
玉林斎は、山岡景猶の号。
438 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 13:19:47.84
 
▽石山城
大津市石山寺2丁目……築城者は山岡景友
元亀3年(1572年)、義昭の命で還俗し山岡景友と名乗り、幕府より山城半国の守護に任じられた(ただし、翌年には義昭と織田信長の関係が決裂したため、どの程度の実質的な権限を伴っていたかは不明)。
信長包囲網が敷かれ信長と義昭の戦いが始まると、他の兄弟が織田氏方に付くなか〔>>299-300〕、景友は義昭に従い近江石山城に立て籠もって抗戦した。
しかし、元亀4年(1573年)2月26日に織田家臣の柴田勝家に攻められ〔国盗り物語では明智光秀 / >>437〕、織田方に付いた兄・山岡景隆の説得を受けて降伏・開城した。
織田家へ仕官後は、兄らとともに佐久間信盛の与力となったと考えられており、信盛追放後に高野山へ信盛を訪ねている記録が残る。
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/files/CONTENT/0405000000/10/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%B1%B1.jpg
439 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 13:25:08.38
 
山岡景友は、近江守護六角氏の家臣・山岡景之の四男。
景隆は長兄で、すぐ上の兄には、叡山焼き討ちのときに、司馬氏によって「地名」と勘違いされた山岡景猶がいる〔>>299-300〕。
303 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 11:14:26.33
 
▽日吉大社
古くは「日枝」「比叡」と書き「ヒエ」呼ばれていました。
平安時代頃より「エ」の文字を縁起の良い「吉」に替えるようになり、「ヒヨシ」という訓みも生まれ両方の名称が使われました。
司馬氏は古い読み方を採っています。
http://www.biwa.ne.jp/~douro-co/otsu/images/otsu_imap.jpg
http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/files/img/area/area05/img_spot08_01.jpg
http://www.kokuhoworld.com/DSC_16861.jpg
305 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 11:27:03.42
 
▽慧敏
利口で反応がすばやいこと
▽冥護
神仏がひそかに加護すること
▽卓犖(たくらく)
すぐれて他からぬきんでていること
▽因循
古いしきたりに従っているだけで改めようとしないこと。ぐずぐずして煮えきらないこと。
311 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 11:53:14.15
 
▽湛空〈F〉
「湛空でござるよ、かねてお見知りの湛空でござるよ」
と、僧は絶叫した。知っている段ではなく、湛空上人といえば、比叡山にのぼり、天台座主六十六世実全(1141−1221)の弟子となって顕密二教を学び、のち浄土教に帰依して法然の弟子となった鎌倉時代の僧ではないか。
「なぜかようなところに湛空上人があらせられる?」
「湛空でござるよ、かねてお見知りの湛空でござるよ」
「湛空上人は建長5年(1253年)にみまかられたはず。なぜかようなところに湛空上人があらせられる?」
光秀は十数歩行き、しかしふりかえった。が、そのときには、自分を湛空であると叫んでいた男の首が、地の苔にまみれて転がっていた。
313 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 12:01:32.74
 
「湛喰」にでもしとけよ(。-∀-) ニヒ
317 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 12:20:46.32
 
▼昭和期の発掘調査
大講堂の建替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われ、比叡山焼き討ちに関する考古学的再検討が行われた。
その結果、明確に信長の比叡山焼き打ちで焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみである。
焼き打ち時に比叡山に所在していた堂舎の数は限定的で、『多聞院日記』に記載されているように、僧侶の多くは坂本周辺に下っていた。
したがって、『言継卿記』に記載されている寺社堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女3,000人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われたという説は、誇張が過ぎる。
318 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 12:26:14.10
 
▼否定的評価
山科言継は『言継卿日記』において「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼討した事への不安と動揺を吐露している。
▼肯定的評価
当時の史料である元亀元年(1570年)の『多聞院日記』には「(比叡山の僧は)修学を怠り、一山相果てるような有様であった」と記されている。
『信長公記』にも“山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く”という記述がある。
新井白石が『読史余論』で「その事は残忍なりといえども、永く叡僧(比叡山の僧)の兇悪を除けり、是亦天下に功有事の一つ成べし」として以降、比叡山焼き討ちは肯定的に評価されてきた。
319 :
日本@名無史さん
2017/03/10(金) 12:27:31.45
 
言継卿、また少数説じゃん(^∇^)アハハハハ!
329 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 08:42:04.64
 
が、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣が発見された。
城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見され、戦時急造の城ではなく、清州城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。
333 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 08:56:09.06
 
▽里坊
山寺の僧などが人里に構える住まい。
http://kankodori.net/japaneseculture/buildings/031/img/photo1.jpg
337 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 09:20:14.66
 
▽「古女房のどこがよいのかよ」
お槇:中野良子
http://blog-imgs-73.fc2.com/g/a/r/garakutakan/omaki01.jpg
以前、忠臣蔵で大石理玖を演じたとき、内蔵助が仇討ちの決意をした瞬間を見て、大石理玖が目玉をひんむいた。
あのひんむいた目玉が怖かった。
339 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 09:45:52.21
 
358 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 12:21:22.87
 
北条氏滅亡時の実権者とはいえ、父である氏康の時代以上に勢力を拡大したその治世や、良好な関係の兄弟と協力し合い、良き臣下に支えられて、合戦でも武功を挙げている点など、決して無能な武将というわけではない。
しかし、汁かけ飯の食い方はキモい。
http://funayama-shika-3.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_568/funayama-shika-3/E6B08FE694BFE585AC3.jpg
363 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 15:31:17.37
 
▽上杉謙信
元亀2年(1571年)4月28日、甲斐の武田氏は北陸における一向一揆の主将・杉浦玄任に書状を送り、加賀・越中の一向一揆が協力して謙信に対抗するよう求めた。
信玄は、上洛する上で背後の敵である謙信を牽制する必要があった。
このため信玄は石山本願寺の顕如に、越中で一向一揆が謙信に対し蜂起するよう要請している。
364 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 15:32:23.35
 
元亀3年(1572年)9月の尻垂坂の戦いにつながる一向一揆ですね。
365 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 21:25:22.81
 
▽濱松城
浜松城の前身は15世紀頃に築城された曳馬城であり、築城時の城主は不明である。
16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を務めていた。
徳川家康が元亀元年(1570年)に曳馬城に入城し、浜松城へと改称。城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めた。
http://www.shirofan.com/files/VJ7Z2562.jpg
372 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 22:11:53.79
 
平手汎秀は信長に目をかけられた将の一人であり、佐久間信盛が後に信長によって追放される際の折檻状には「信盛は林秀貞・水野信元らとともに、汎秀を見殺しにした」との理由をつけられている。
380 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 08:26:19.14
 
▽家康の敗走
武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。
この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。
浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城の計を行う。
そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。
この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる。
浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げる。
382 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 08:46:55.67
 
★坂本城

▽刑部郷
浜松市北区細江町中川字新屋
阿王山紫城とも呼ばれるこの城は、三方を都田川で囲まれた要害の地に築かれた。
永禄11年(1568)12月、 この地の人々がここに城柵を築いて立て籠もり、徳川家康の軍と戦ったが敗れた。
その後、菅沼氏が城主として入城した。
武田信玄は元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の合戦での勝利の後、祝田から刑部に軍を移し、翌年まで滞在した。
そして刑部滞在中に三方ヶ原の大勝利の報を各国の武将に通報したという。但し、それがこの刑部城からかどうかは不明である。
http://castle.slowstandard.com//media/img_20070618T222112906.jpg

385 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 09:04:25.44
 
▽野田城
愛知県新城市豊島……信玄の三河入り
信玄は、元亀4年(1573年)1月10日に遠州刑部を発ち、細かく宿泊を重ねて宇利峠から三河へ進入。
豊川を渡河、徳川方の三河における属城のひとつである野田城を包囲した。
武田軍は力攻めは行わず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。
結果として野田城は1ヶ月持ちこたえたが、2月16日に城兵の助命を条件に開城降伏し、菅沼定盈は捕虜として武田軍に連行された。
http://funayama-shika-2.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_0eb/funayama-shika-2/m_E5BDB1E6ADA6E88085DVD.jpg
388 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 09:33:52.52
 
▽鳳来寺
愛知県新城市鳳来寺
武田信玄は、遠州二俣城を取り、三方ヶ原で家康を破り、三河野田城を攻め落とした。
しかし、信玄は野田で病気となり、京に上るのを断念、長篠城や鳳来寺、田口の福田寺等で休養しつつ故国甲府を目指したが、信州駒場で死去した。
信玄の死後、家康は長篠城を占拠し、奥平貞能とその子貞昌を味方に引き入れた。怒った武田勝頼は、奥平の人質(仙千代、虎之助、おふう)を処刑した。
http://oota8.net/hor/hourai/horaisan.jpg
395 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 09:52:34.64
 
▽天正
元亀の後、文禄の前。1573年から1592年。
元亀4年7月28日(ユリウス暦1573年8月25日) 戦乱などの災異のため改元
天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日、ユリウス暦1592年12月31日) 文禄に改元
この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。
405 :
年表
2017/03/14(火) 10:04:55.83
 
▼天正11年(1583年)
4月21日 – 賤ヶ岳の戦いが起こる
5月2日 – 織田信孝が自刃
▼天正12年(1584年)
3月24日 – 龍造寺隆信が島原で島津家久などとの戦いの末、敗死(沖田畷の戦い)
4月9日 – 小牧・長久手の戦いが起こる
6月28日 – スペイン船が平戸に初来航
410 :
年表
2017/03/14(火) 10:11:18.00
 
▼天正16年(1588年)
4月14日 – 後陽成天皇が聚楽第に行幸
7月8日 – 刀狩令、海賊取締令が発布される
▼天正17年(1589年)
2月5日 – 駿河国・遠江国で大地震
5月27日 – 豊臣秀吉の妾妻淀殿が鶴松を出産
6月5日 – 伊達政宗が蘆名義広戦い、大勝した伊達政宗が南奥州の覇権を確立(摺上原の戦い)
431 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 12:30:15.22
 
この章でも、信玄は存命中です。
441 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 13:36:16.72
 
▽今堅田城
滋賀県大津市今堅田1丁目
新田義貞に従い武功を挙げた堀口貞満の子・貞祐が築城した。
今堅田城は甲賀衆の磯谷新右衛門が守っていたが、明智光秀は囲い舟で湖上から攻撃し、丹羽長秀と蜂屋頼隆は地上から攻め、2月29日中に落城した。
http://www.geocities.jp/hinatacobo/img124.jpg
※小番城城跡
堅田衆の本拠・堅田城と今堅田城の間に位置することから、堅田衆に関連した城と思われる。現在の小番城地区一帯が城域とされる。
琵琶湖と堅田内湖に囲まれた天然の要害の面影を現代に残す。
https://masakishibata.files.wordpress.com/2015/07/kobangi_head.jpg
448 :
国盗り物語
2017/03/14(火) 14:41:41.44
 
第71章 箔濃

「なんじゃと思う」
「はて、はて」
勝家は、くびをひねっている。
「朝倉義景、浅井久政、同長政の三人からぶんどったものだ」
「ほほう、彼の両家のお蔵から?」
「ばかめ、それはあの死神どもの頭よ」
と信長はいった。

451 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 15:31:00.64
 
▽田中城
高島市安曇川町田中……田中郷の領主・田中氏の居城
比叡山から北に続く比良山系の標高が低くなり、山塊の東を通る西近江街道と西を通る朽木街道(鯖街道)を押さえることの出来る立地を生かして築城されている。
「信長公記」によると、元亀元年(1570)4月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景攻略の途次、この田中城に逗留したことが伝えられている。
その後、浅井長政の勢力下におかれた田中城は元亀4年(1573)に信長の手によって攻略され、明智光秀の支配を受けて終焉を迎える。
http://www.geocities.jp/buntoyou/f7/f0666czz1.jpg
http://www.oumi-castle.net/second_page/tanaka/tanaka2.jpg
455 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 15:49:24.43
 
★一乗谷城の戦い

▽天正元年8月(1573年)
8月8日、信長は3万の大軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入った。
これに対して浅井長政は5,000人の軍勢をもって小谷城に籠城し、朝倉義景も家中の反対を押し切った上で、自ら2万の大軍を率いて長政救援のため、余呉に本陣を敷いた。
12日、近江一帯を暴風雨が襲った。信長はこの暴風雨により敵が油断しているはずと判断し、これを好機と捉えたと考えられる。
信長は本陣より自ら1,000人の手兵・馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦を奇襲した。

457 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 15:54:52.12
 
▽刀根坂の戦い
義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。
余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上といわれる死者を出した。
北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう名のある武将が多数散っていった。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属部隊はほぼ壊滅した。
義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。
465 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 16:26:22.23
 
★小谷城の戦い

▽天正元年(1573年)8月8日から9月1日まで
越前を制圧した信長は、織田軍の一部を越前での戦後処理に留めて小谷城へと引き返し、26日に虎御前山の本陣へ帰還すると、全軍に小谷城の総攻撃を命じた。
翌27日、木下秀吉率いる3000の兵が夜半に長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸にとの間にある京極丸(兵600)を占拠し、父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功した。やがて小丸への攻撃が激しくなり、800の兵を指揮していた久政は追い詰められて小丸にて自害した。

471 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 17:17:06.93
 
★岐阜城

▽天正2年(1574年)正月
正月の時点では、いまだ石山本願寺とは手切れになっていない。4月2日に石山合戦が再度はじまる。
その端緒となったのは、越前一向一揆である。
天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣・前波吉継を守護代に任じて統治させた。
しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年の1月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。

509 :
日本@名無史さん
2017/03/17(金) 12:06:23.75
 
★河内の陣

▽美濃に侵入した武田勝頼
天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、朝倉氏旧臣で信長によって守護代に任命されていた桂田長俊(前波吉継のこと / >>471・>>458・>>349)が一乗谷で殺された。
それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。

576 :
日本@名無史さん
2017/03/19(日) 11:55:32.95
 
▽柴田勝家
天正3年(1575年)、信長は越前一向一揆〔>>471-472〕を平定した。
9月、勝家は越前国8郡49万石、北ノ庄城(現在の福井市)を与えられる。
このとき簗田広正に切りとり次第の形で加賀一国支配権が与えられるが、信長が帰陣すると一揆が蜂起し、小身の簗田はこれを抑えられず、信長に見限られ尾張に戻される〔>>140〕。
473 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 17:24:02.84
 
▼三好義継
元亀2年(1571年)頃から松永久秀と手を結んで信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わった。
しかし元亀4年(1573年)4月、信長最大の強敵であった武田信玄が病死すると織田軍の反攻が始まり、7月には義兄にあたる足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府は滅んだ。
追放された義昭を若江城において庇護したため信長の怒りを買い、天正元年(1573年)11月、佐久間信盛率いる織田軍に若江城を攻められ(義昭は直前に堺へ脱出)、妻子と共に自害して果て、首は信長のもとへ届けられたという(若江城の戦い)。享年25。
これによって戦国大名としての三好家の嫡流は断絶した。
516 :
日本@名無史さん
2017/03/17(金) 18:34:52.02
 
▽河内で転戦して三好党の城々を攻め
三好義継が自害した若江城の戦いが天正元年(1573年)11月のことなので〔>>473〕、ひょっとすると、これのことかもしれない。
しかし、久秀の多聞山城開城よりも一月前の話なので、日本語の文章としては非常におかしい。
475 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 17:30:58.00
 
▽荒木村重
天文4年(1535年)、摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。
最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。
しかし、三好三人衆の調略に乗り、池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると、混乱に乗じ池田家を掌握する。
※荒木村重:新田昌玄(しょうげん)
http://blog-imgs-73.fc2.com/g/a/r/garakutakan/murashige01.jpg
583 :
日本@名無史さん
2017/03/19(日) 16:54:07.75
 
▽荒木村重〔>>475〕
▽池田勝正の没後、その領地を村重にひきつがせ
『池田氏家譜集成』所収の系図によれば、池田勝正の没年は天正6年(1578年)であるという。
まだ生きているか、死んだ直後だな。
まあ、信長が引き継がせたというのは、大ウソ。
三好三人衆が、同族・池田知正と重臣の荒木村重を調略して池田勝正を追放させた〔>>184〕。
478 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 17:53:30.23
 
▼三好三人衆
▽岩成友通……天正元年(1573年)、三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて、藤孝の家臣の下津権内(おりつ ごんない)と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した。享年43。
▽三好長逸……天正元年(1573年)、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。
▽三好政康(釣竿斎宗渭)……元亀兵乱が信長の優位で決着すると宗渭の動向は不明となった。没年すら定かではない。
そこから、大坂夏の陣において88歳という高齢でありながら最期まで秀頼に従い戦死した三好清海入道が宗渭の後身であるという俗説が生まれた。
489 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 19:05:01.52
 
★相国寺

▽公卿
公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、
すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議、もしくは従三位以上の議政官を差す用語である。
天正3年(1574年)3月18日に、信長は従三位参議になっています。

491 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 19:38:08.37
 
>>489
>>490
従三位参議は天正2年(1574年)3月18日だよ。
493 :
日本@名無史さん
2017/03/16(木) 18:52:31.65
 
▽飛鳥井雅教(雅春)
永正17年(1520年)− 文禄3年(1594年)
天正2年(1574年)に正二位に叙位し、天正3年(1575年)には権大納言に任官する。
505 :
日本@名無史さん
2017/03/16(木) 21:36:09.63
 
信玄が亡くなり、義昭を追放したので、ここから司馬さんは端折るよ。
あとは本能寺の変しか興味がないといった感じだ。
長篠の戦いや紀州攻めは、他の小説で書いているからね。
512 :
日本@名無史さん
2017/03/17(金) 17:09:57.02
 
信玄が死ぬまでは、ほぼ時系列で語られてきたが、天正3年以降は数章で天正10年まで突っ走るから、過去を振り返っての叙述も増えてくるよ。
522 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 15:50:07.94
 
丹波国は山続きでその間に国人が割拠して極めて治めにくい地域である。丹波国国人は親義昭派で以前は信長に従っていたが、義昭追放で敵に転じていた。
波多野秀治は、天正3年(1575年)には明智光秀の軍勢に加わって丹波国で織田氏に対抗する豪族の討伐を担当した。
だが、裏側では丹波国の国人達に味方する意思を伝えており、天正4年(1576年)1月に突如として叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。
532 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 18:41:07.13
 
光秀は越前より坂本城に帰城し、戦の準備を整えて天正3年(1575年)10月初旬に出陣したと考えられている。
この時、荻野直正は竹田城にいたが、光秀の動きを察知し、黒井城に帰城して戦闘態勢を整えた。
これと並行して信長は10月1日、丹波国人衆に向けた朱印状を出し、その調略によって八上城の波多野秀治をはじめ、国人衆の大半を取り込んでいた。
光秀は黒井城の周囲に2、3箇所の砦を築き、圧倒的兵力で黒井城を包囲した。この頃の戦況は光秀に有利であった。
539 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 19:02:58.21
 
翌天正7年(1579年)3月に、八上城と黒井城の分断を目的に金山城を築城する。
極度の飢餓状態になった八上城は、6月1日に落城する。
捕えられた波多野三兄弟は、洛中を引き回された後に、安土城に送られ、信長の命により磔になる。
光秀は7月に再び丹波に入国し、最後の城である黒井城の攻城にとりかかる。
542 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 19:49:58.72
 
郷土史家という人たちは、先祖に戦国時代の国人・地侍を持つ人が多いのかな?
つい自分の先祖を贔屓してしまうものだから、第三者が読むと、自分の先祖に偏った叙述になっていて、わかりにくいよ。
548 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 20:34:42.30
 
光秀は四王天政孝を福知山城代とし、福知山城周辺に1万石の知行を得た。
本能寺の変の際には、負傷した明智光忠に代わって政孝が二条城攻めを指揮した。
天正10年6月13日、山崎の戦いで、政孝は光秀に先んじて戦死した。
552 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 21:01:29.96
 
▽波々伯部権頭
ははかべ……丹波国多紀郡であった現在の兵庫県篠山市の東部に、「波々伯部」と称されてきた古い集落がある。
「波々伯部」とは、古代朝廷で亀卜に用いる「ハハカ」の木を献上する部民が、小集団を形成して居住していたところから、「波々伯部」と呼ばれるようになったものである。
574 :
日本@名無史さん
2017/03/19(日) 11:41:45.75
 
★北陸戦線

▽滝川一益
元亀元年(1570年)9月の石山合戦の開始で、長島一向一揆も一斉に蜂起し、11月には一益も桑名城に籠っている。
その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しつつ、尾張守備、更に遊軍として各地を転戦することとなる。
天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いに参戦。
天正2年(1574年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率い、海上から射撃を行うなどして織田軍を援護した。
この功により長島城及び、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領している。
天正3年(1575年)、長篠の戦いに参陣し、鉄砲隊の総指揮を執る。また同年には越前一向一揆を攻略。
天正4年(1576年)の天王寺合戦、同5年(1577年)の紀州征伐に参陣。
天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に一益の白船1隻が出陣しており、鉄甲船建造に関わっている。
天正7年(1579年)11月まで続いた有岡城の戦いでは上*塚砦の守将を調略し、有岡城の守備を崩壊させた。
この2つの敗戦により、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、翌年4月、本願寺法主・顕如は信長に降伏することとなる。

 

 

 

引用元:http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/

 

 

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