邪馬台国の首都は伊都で、卑弥呼の墓は平原遺跡だったらしいぜ

1 :
ドナルド・トランプ
2017/02/27(月) 22:12:50.57
 
【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の奴国が商業都市として膨張したのとは対象的であり、世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀前半の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、鳥居とおもわれる痕跡がある。
特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていることから、強大な女王がいたことがわかっている。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。

伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
平原遺跡の目の前には高祖宮があり、後世には東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
これが筑紫の日向の高千穂宮の実体であり、高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギは高千穂のクジフル岳に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などがまさにニニギ王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石神社、高祖神社の目の前の平原遺跡から出土した八咫の鏡などが証拠である。
魏志には、卑弥呼の宮城は楼閣高しと書かれているが、単に高い建物があっただけでなく、高祖山やクジフル山の山頂にまで楼閣が配置されていた可能性がある。

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には三種の神器が副葬されていた他、鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあったこともわかっている。
王宮である高祖宮(高千穂宮)は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していたことになる。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
太陽信仰が伊都国における神道の基本形であり、後の伊勢や宮中における祭祀に継承されている。
伊都国は魏志と記紀の貴重な接点であり、記紀の伝承に絶対年代を与えることができる。

 

 

10 :
日本@名無史さん
2017/02/27(月) 23:42:44.45
 
>>1
スレ立て乙です。
テンプレに採用してくれてありがとう。
35 :
日本@名無史さん
2017/02/28(火) 12:51:05.21
 
>>1
古〜い九州王朝説を焼き直しただけの、ガチガチ「平原王朝説」にすぎぬな。

ま、その古さにおいては甲乙つけがたいwww

255 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 17:59:41.71
 
>>1
>伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
>平原遺跡の目の前には高祖宮があり、後世には東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
>これが筑紫の日向の高千穂宮の実体であり、高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。

たしかに戦乱中なのだから、
防衛に適した山城に宮を構えるのは理にかなって居るな。

384 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 18:43:02.00
 
>>1
>卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、

これどこに書いてるんだ?

8 :
ドナルド・トランプ
2017/02/27(月) 22:16:40.69
 
対馬海流

以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子で主要港は唐津湾だと確定する。

・壱岐〜呼子の潮流は、朝鮮半島〜対馬、対馬〜壱岐の長距離区間に比べ、はるかに弱い。
・壱岐〜呼子の潮流は、「西向き」になることさえある。(下記など複数参照)
・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線とを分ける必要がある。

☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。

対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)

対馬「海流」は基本的には北東方向へ流れているが、海底地形や潮の干満、気象などからの
「潮流」変化も加わるため、潮の流れは一定方向ではない。
反時計回りの渦巻き流なども発生するため、日によって変わる潮の流れは、
渡海する船にとって、プラスにもなればマイナスにもなりうる。

※特に、壱岐〜呼子の間については、逆に西方向への流れのこともある。
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/japannctam/54/0/54_0_6/_pdf

☆海上の交通整理
大都市に近い港湾というのは陸上と同じで大混雑する。
日本各地からの国内船、博多湾内各地同士の生活連絡船などでごった返す博多湾の水上交通の過密ぶりを少しでも緩和するために、
朝鮮半島との連絡船は呼子到着で唐津湾に寄港させるのが海洋国家として当然の行政。

13 :
ドナルド・トランプ
2017/02/28(火) 01:00:02.69
 
漢帝国の威光を伝える前漢鏡・後漢鏡だが、後漢は220年に滅亡してしまう。

だが、後漢の後の魏(220-265)、そして魏の後の晋(265-420)代の墓である
洛陽晋墓に、後漢鏡のみならず前漢鏡すら副葬されていることから、
前後漢鏡はかなり後の時代まで中国大陸に存在していたことがわかる。

平原遺跡出土の舶載鏡のうち、
後漢鏡である内行花文鏡長宜子孫鏡は、洛陽晋墓から同型のものが出土している。
前漢鏡であるキ龍文鏡は、縁がすり減っており、長期間伝世されたものである。
直径16.5センチメートルあり、キ龍文鏡として、国内では最大、中国でも上位であることから、金印や金銅製四葉飾金具と同じく、漢から倭国王へ贈られたものが伝世したのであろう。

一方で、大量の仿製鏡と世界最大の超大型内行花文鏡についてだが、
公孫氏が遼東太守に任命されるのが189年、帯方郡を設置するのが204年である。
236年には公孫氏はついに魏に反旗を翻して、本格的に敵対する。
日本への漢鏡の供給ルートは一時的にせよ絶たれることになる。

銅鐸が大型化するのには300-800年、
銅矛が大型化するのには300年ほどかかっている。
銅鏡の国産化自体は紀元前には開始されていた。須玖タカウタ遺跡では紀元前の国産銅鏡鋳型も見つかっている。

公孫氏によって舶載鏡の輸入が途絶えた189年から国産鏡の生産が本格化したとして、
そこから大型化するのに、さすがに300年かけることはないだろうが、
10年20年で「世界最大の銅鏡」にまで巨大化させるのは飛躍がありすぎる。

平原遺跡の銅鏡年代は、可能な限り遅めに考えるのが妥当。
大型内行花文鏡を4面も作製している以上、3世紀後半でも早すぎるくらいである。

さらに、大量の中国朱がもたらされている。
三国志の戦乱の中、魏が建国して中国北部が落ち着いてきた220年以降かつ、
公孫氏が滅亡して魏へのルートが開けた238年以降。
(供給源の安定+供給ルートの再開)
まさに卑弥呼の朝貢によってもたらされた中国朱であることが強く示唆される。

14 :
ドナルド・トランプ
2017/02/28(火) 01:00:54.25
 
徳川将軍家康から家慶までの生母一覧
(西洋医学の入る明治維新前に死去)

於大の方(1528-1602)74歳
西郷局(1552-1589) 37歳
江(1573-1626)   53歳
宝樹院(1621-1653)32歳
桂昌院(1627-1705)78歳
長昌院(1637-1664)27歳
月光院(1685-1752)67歳
浄円院(1655-1726)71歳
深徳院(1688-1713)25歳

25歳で出産として推定
至心院(不詳-1737家治出産-1748)35歳±?
お富の方(不詳-1773家斉出産-1817)44歳±?
香琳院(不詳-1793家慶出産-1810)43歳±?

江戸将軍の生母の平均年齢が
確実な9人で「52歳」
推定の3人も含めると「49歳」

50歳と仮定できるだろう。

16 :
ドナルド・トランプ
2017/02/28(火) 01:02:08.01
 
弥生時代の女性の平均年齢は20歳を切るとの報告もあるが、

江戸時代の王母で平均50歳だから
弥生時代だと平均40歳くらいに設定してみる。

考古学の成果を尊重すると
平均40歳で亡くなっていた弥生王母の副葬品と考えた時に、
平原遺跡の被葬者の副葬品は200-220年のものと推定される。

だったら
被葬者が80歳で亡くなった
しかも鬼道を得意とするシャーマンだった場合
(副葬品は呪術用具であり、生涯にわたり大事に使い続ける)

同世代の女性が死亡した平均年代の
約40年後に卑弥呼は死亡したことになる。

21 :
ドナルド・トランプ
2017/02/28(火) 01:04:49.58
 
九州倭国の東征経路

博多湾→宗像→出雲など東方倭種→丹後若狭湾直轄→越
 ↓               ↓
 宇佐        淀川水系←琵琶湖→前方後方墳国家(朱儒国)
 ↓ 
瀬戸内四国→淡路島→阿波吉備→畿内黒歯国と衝突

先に博多湾東部(奴国銅鐸系)が東征 
次に博多湾西部(伊都国銅鏡系)が再東征 

(奴国銅鐸系・大国主)吉武高木〜須玖岡本(↓国譲り)
(伊都国銅鏡系・天照)三雲南小路(邇邇芸)〜井原鑓溝〜平原〜

紀元前の奴国王(素戔嗚〜大国主)時代に、日本海側を越まで征服。
越の翡翠勾玉を得て、三種の神器が完成。
航海技術は高くなく、瀬戸内四国は西部のみ征服。青銅器主体。

伊都国王(天照)が倭国王となってからは、対馬海峡の航海技術を応用して、
瀬戸内海の潮流を乗り切って東進した。(高地性集落)
北方には狗邪韓国を拠点として投馬国(任那〜663)建設。鉄延べ板入手独占。
57年に金印獲得。
107年には160人の生口を漢へ朝貢輸送。(海上遠距離輸送能力の証明)

34 :
日本@名無史さん
2017/02/28(火) 12:49:49.61
 
王と王妃なら王の方が大きいが、平原は女性の方が大きいので、例えば女王と弟かな。
魏志倭人伝そのまんまだな。
37 :
日本@名無史さん
2017/02/28(火) 13:01:47.70
 
無知もいいとこ
41 :
日本@名無史さん
2017/02/28(火) 13:39:48.43
 
揚げ足をとるほどの説ではないよ

ま、古い天プラ説の揚げ直しといった程度だな

49 :
日本@名無史さん
2017/02/28(火) 16:06:19.07
 
200年前後というのは常識的に考えて150〜250年くらいの幅があるだろうな。
50 :
日本@名無史さん
2017/02/28(火) 16:14:06.24
 
【耳飾】

>ローマ人は真珠を好んで用いている。中国では戦国時代末から漢代にかけて
>耳璫(じとう)と呼ばれる耳飾が盛行した。
>耳朶に孔をうがち,鼓状や漏斗状,茸状などにしつらえた玉類を嵌装し,
>その中心に孔をあけて垂飾をつけている。
>雲南やミャンマーなどの非漢族の風習が伝わったものとされる。…

耳璫(じとう)は、雲南やミャンマーなどの少数民族の風習だったというから、
それが一時みやこで流行しただけじゃないか
女王の権威などとは縁遠い、だだの物珍しがり爺やの骨董収集だったのさ・・・、あほくさー

66 :
日本@名無史さん
2017/02/28(火) 21:43:53.13
 
台与の墓はどこだよ?
84 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 10:21:07.61
 
桃のタネでも、サバの骨でも、土人の鼻輪でも、
なにか出ると、国だー、王権だー、女王だー、と格式に絡めて言いたがるけど、性急すぎるな。

古代人といえど、
氏族・家族そろって一族団結の心温まる生活が心の支えであったであろう。
いつ盗賊におそわれるかわからない古代人であればあるほど、そうだったのではないか。、
だから、贈答品や美の品々が出てもおかしくはないのだ。

91 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 13:00:24.60
 
>>84
ガラス玉でも鏡でも金細工でもそうだが、その背景には採掘、精錬、加工の膨大な技術と知識、労働力、富があることを考えなくてはいけない。
銅鏡なら漢から贈られたものだし、ガラスはペルシャなどからのものがあるそうだし、ただの家族制手工業の結果ではないのですよ。
しかも博多湾岸については正式に漢から倭国の王として冊封されていたわけです。
歴史を矮小化して歪めるのは感心しませんね。
まあ、九州に上古から倭国王権の中枢があったとなると困る畿内説の中傷でしょうけれど。
113 :
日本@名無史さん
2017/03/01(水) 19:53:16.89
 
>111
たしかに肥国の始まりは、有明海からの大量上陸が妥当とおもう

上レスで、唐津経由といったのは、
2〜3世紀当時、大陸王朝との交流・交易の都合上、唐津〜壱岐〜対馬航路を軍事力で確保したのではないか
唐津は、今でも佐賀県に属するが、
唐津と博多湾の間は、険しい山・崖で通う人もなく、軍が攻め入るのもはばかられたと思われる

なお、倭人伝には末羅国の王や官名の記載がないが、
末路国の首都は伊万里方面にあって、
当時の末羅港(唐津)はうらぶれた小津であり、下っ端の役人が少人数いただけだったからではないか

127 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 10:38:38.32
 
ガラス玉とか銅鏡って、別に大陸の王朝に認められなくても
商取引(物々)で普通にやり取りされてるだろ?
142 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 18:10:44.87
 
神奈川県厚木市は12日までに市内で台湾原産の特定外来生物「スウィンホーキノボリトカゲ」の生息を確認したと発表した。
国内では、静岡県磐田市と宮崎県日向市で報告があり、
関東以北では初めて。生態系への影響が懸念されるため、厚木市は駆除を進める方針。
144 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 18:14:03.53
 
【関東以北 昨日との気温差10度以上に】

きのうは一時的に春を感じられましたが、
きょうは違います。冬が粘り強さを見せます。広い範囲で冷たい空気に入れ替わるでしょう。

特に関東から東北、北海道はきのう(17日:金曜)との気温差が大きくなります。体調を崩さないようにご注意下さい。

161 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 19:11:18.33
 
>>144
やはり関東以北ということは関東以外の存在が視野に入っていますよね
そして、関東以北と言った場合、日本の中のという前提が省かれています。
つまり、ここでは関東という存在はあくまで部分として扱われているということです。

では、それでは日本を全体として扱っている場合に、日本政府が日本以北に特別に監督機関を置いたという
文脈ではどうでしょう?日本国内に特別に機関を置くのなら、特別である必要はありません。
この場合、日本政府が日本より北に特別に機関を置いたと解釈するのが普通ではないでしょうか?

155 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 18:53:40.26
 
神の啓示だな

博多駅の真ん前が陥没したろ

あの地点が倭人伝に明記された、邪馬台国の基準点だ

159 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 19:02:55.60
 
狗邪韓国は形式上は投馬国管轄

 

 

199 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 20:08:24.30
 
神の啓示か
そういや誰一人として負傷者を出さなかったな
そしてオール福岡で団結して世界から高評価
201 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 20:21:38.46
 
自華以南氣下*上赤嵩高三河之郊氣正赤

華(中国)より以南は、気の下が黒く、上が赤い。嵩高(嵩山をさす)、三河の郊外は、気が正赤(真っ赤)。

207 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 21:03:37.96
 
>>201
意味分かってる?
209 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 21:08:19.89
 
>>201
九州説は見守っておくから、自分で解釈してね
206 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 21:03:31.93
 
伊都国説は頓死
211 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 21:09:21.50
 
ここの説は以前sekai.syou2氏の「サルでもわかる九州王朝」というホームページに載ってた内容を
ウィキの九州王朝説に転載したものがベースになってますから、古田氏の説とは内容が異なります。
212 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 21:32:38.02
 
>>211
違うよ!
勝手なことほざくな!
227 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 23:27:18.51
 
そうなんだよね。
記紀の神代の巻は結局、畿内政権が成立する前の倭国の時代の歴史をまとめたとも言える。
筑紫、出雲が倭国の2大勢力で、筑紫が政権を取り、伊都高千穂に都を置いたというのがメインストーリー。
倭国の都が筑紫伊都である以上、その女王である卑弥呼が伊都にいたのも当然なんだよ。
そしてそれは魏志倭人伝とも一致する。
もちろん、考古学的にも筑紫以外に都があった形跡はない。
230 :
日本@名無史さん
2017/03/02(木) 23:46:51.32
 
236 :
日本@名無史さん
2017/03/03(金) 00:03:34.15
 
なんで畿内説のために常識を捻じ曲げないといけないの?
皆が真面目に検証してるさ中に低レベルな粘着されて
はっきり言って迷惑だよね
279 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 10:53:17.25
 
九州全体を倭国として百余国、
肥前、肥後が女王国の三十ヶ国
そのうち肥後が邪馬台国
肥前はまだ統一途中で小国の集まりであり
代官である一大率が統治していた。

筑紫も同等程度の国力があり、
こちらはこちらで大国であり、のちの九州王朝の母体となる。

私はこういうイメージを持っている。

339 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 14:37:42.29
 
畿内説と一緒だな。
なにがなんでも肥国が邪馬台国と結論ありきだから、
矛盾が出る。
342 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 14:39:54.35
 
>>339
結論ありきで考えているわけではないが、様々な疑問が解消され、むしろ矛盾が減ると考えているよ。
364 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 15:17:01.79
 
菊池城は伊都城と同じ形式の山城だね。年代不明となっているけれど。
装飾古墳の30%は熊本県にあり、全国一だとか。
記紀では阿蘇神社の創建が紀元前282年らしいけど、さすがにこれはマユツバか。
熊本県最大の塚原古墳群は、平原遺跡と同じ方形周溝墓から始まり、前方後円墳も含む100〜500基ほどの古墳群。

規模も時代も筑紫に引けは取らないかもしれない。

382 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 18:19:10.97
 
伝承が断片的なので知名度も低いけど、調べると>>364みたいに考古学的には豊かみたい。
途中で断絶したから知名度が低いのかな。
383 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 18:41:13.71
 
整理されてないだけで、探せば無数に出てくるからな。
点じゃなくて面で出てくるので、文字通り次元が違う。

遺跡地図見ればびっしり埋まっているのがわかるだろう。

385 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 18:44:25.46
 
>>383
王権を示すものは?

 

 

390 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 19:04:44.12
 
狗古智卑狗=菊池彦って決定事項のように扱ってる奴がいるけど

狗古智卑狗は名前の最初と最後の発音が同じなのに菊池彦は違うという矛盾をどう考えてるの?

403 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 20:56:18.01
 
筑紫に王権があったとはいえ、
肥沃な筑後、肥前、肥後が主要プレイヤーであったことは
疑いようがないからな
435 :
日本@名無史さん
2017/03/04(土) 22:02:38.02
 
真珠五十斤
450 :
日本@名無史さん
2017/03/05(日) 10:10:34.53
 
は?九州王朝スレになってんぞ
465 :
日本@名無史さん
2017/03/07(火) 08:43:35.38
 
逆じゃないかな。
筑紫倭国は百済との関係が強いよ。
白村江や七支刀を見ればわかる。
471 :
日本@名無史さん
2017/03/07(火) 11:34:20.53
 
継体は北百済の皇子であった
487 :
日本@名無史さん
2017/03/07(火) 20:42:43.34
 
白村江の戦いは唐、新羅、倭国VSヤマト、百済である
512 :
日本@名無史さん
2017/03/08(水) 08:17:09.23
 
確か馬は百済王から進呈された動物だから、4C頃までは居ないでしょ。

弥生遺構から馬の骨が出たなんて聞いた事がない。

573 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 22:52:36.30
 
考古学的に倭国の王都は伊都国だけ。
倭国女王の卑弥呼が伊都国にいたのは当然。
墓もある。
574 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 23:14:49.00
 
>>573
卑弥呼が伊都は確定として、
その前の大国主は奴国だったのか、出雲だったのか、
その後の台与は伊都だったのか、宗像か宇佐だったのか、
が気になる。
575 :
日本@名無史さん
2017/03/09(木) 23:36:37.33
 
大国主は難しそうだな。
出雲にも物証があるけど、記紀が伝えていたのは奴国のことだったかもね。
そうでないと、大国主が降伏したから孫を福岡に派遣することの意味が通じない。

壹與は肥前河上に一票。
ちなみに後の熊襲梟師の宮も肥前河上。
熊襲とは実は肥国の王家の名前(国ではない)。

619 :
日本@名無史さん
2017/03/11(土) 11:11:41.41
 
一括処分は、おいておいて
銅鏡百枚が(魏にとって)大したものではないのは、同意なんだな
正史の下賜品は、重要性の高いものから順に書かれるけど

倭人の条をみると...
金印(親魏倭王)、錦、毛織物、絹、金、刀、銅鏡百枚、真珠、鉛丹
だからね

621 :
日本@名無史さん
2017/03/11(土) 11:38:54.54
 
現時点で卑弥呼の銅鏡百枚に一番近いのは、
この獣首鏡でしょう?
http://yamatai.cside.com/katudou/image/290-7.gif

卑弥呼の使節(238-9年)から20年後の鏡で
右尚方(魏の官営工房)の銘も刻まれている

622 :
日本@名無史さん
2017/03/11(土) 12:02:17.91
 
>>621
うん、とても素晴らしい
安物コピー八咫鏡の、千倍も、万倍も優れた出来だ。これならなっとく。
650 :
日本@名無史さん
2017/03/11(土) 22:19:05.95
 
あるだろ

日本で600枚出土、中国で0枚出土の国産鏡とか、
西では鉄器だらけなのに、鉄器が皆無の驚異の3世紀倉庫集落とか

663 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 00:59:20.56
 
倭国には、兄弟で海と陸を分けて統治する習慣があった。
アマテラスが海を、スサノヲが陸を支配した。
アマテラスが対馬海峡を、スサノヲが博多を支配した。
ツクヨミは海の向こう、おそらく長崎の方へ行ったきり。
後にやはり博多が欲しくなったアマテラスは国を譲るように迫る。
実は国譲りは島根ではなく博多の出来事だったという説がある。
だからこそ、国譲りのあとでニニギが博多湾を見下ろす高祖山に降臨するのである。
688 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 10:39:38.35
 
神夏磯姫が倭国女王であるなら、
それこそ熊襲などをも討伐するよう神夏磯姫から依頼するはずだが、
神夏磯姫が征伐を頼んだのは田川周辺の小物ばかり。
694 :
岡上 ◆JN/67qb8kM
2017/03/12(日) 10:53:44.05
 
また平原の内行花文鏡の話になってますが、ここを避けて通って畿内説の確定も何もないですよ。
考古学的出土物なんだから、矮小化したり、無視したりしてお茶を濁してすむ話ではないです。

平原の内行花文鏡に太陽信仰を看て取るるか、どうかですが、こんな感じでしょ。

1さん、ジョーカーさん : そんなものは後世の知識からみた妄想
降霊厨さん       : 葛城に多紐細文鏡があるから、畿内にももともとあった。

私から見れば、何れも九州北部の影響を評価したくないだけの見解にしかみえませんけどね。

695 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 10:56:01.68
 
>>694
スレ違い
705 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 14:37:41.40
 
紀元前に、出雲など日本海沿岸を征服し、そこからの収益で
倭国王となったのが、大国主

紀元前後に、壱岐対馬から朝鮮半島領土を拡大し、鉄器など海外交易の収益で
倭国王となったのが、天照

2,3世紀に、畿内を征服し、未開だが人数は多いという理想的荘園からの収益で
倭国王となったのが、

712 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 17:05:59.66
 
高祖神社もそうだし、細石神社も、様式が国津神のそれなのだが、どういうことだろうか。
714 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 17:07:52.89
 
>>712
様式のどの部分ですか?
719 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 17:59:06.34
 
神功皇后が合祀されているのに八幡の呼称が追加されていないのも珍しい点だ。
722 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 19:40:31.48
 
平原遺跡(福岡県糸島半島)

1965年1月 農作業中に多数の異物の破片が発見される
1985年   周辺に点在する狐塚古墳・銭瓶塚古墳
        ワレ塚古墳とともに国史跡に指定される

発見されたもの

ガラス製の勾玉
耳とう(女性用のピアス)
内行花文八葉鏡(青銅器製、直径46.5センチで日本古代最大)
       (国内製造)
多数の砕かれた銅鏡
鉄製の刀 (木棺の外・墳墓からは出ていない)

以上より埋葬された者は女性で権力を持っていたと考えられている

723 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 21:39:22.50
 
>>722
多数の銅鏡に八咫鏡といえば、
まことぴったりの女性「伊斯許理度売命」がいるぞえ

>思金神は、鍛冶師の天津麻羅を探し、
>作鏡連(かがみづくりのむらじ)の祖神、伊斯許理度売命に、
>天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)
>を作らせた。
>その名のイシコリドメは、石(イシ)の鋳型を用いて鏡を鋳造することに精通した
>特別(コリ)の女性(トメ)の意味である。

726 :
日本@名無史さん
2017/03/12(日) 23:07:23.08
 
春日市

春日大社
 建御雷之男神(伊都尾羽張)
 経津主神(伊波比主神)
 天児屋命
 比売神

747 :
日本@名無史さん
2017/03/13(月) 20:37:20.48
 
>筑紫邪馬台国と筑後狗奴国による倭王称号の争奪戦

これは倭国大乱の後半、3世紀に入ってからの話で、
2世紀半ばに倭国大乱が起きた直後は、
狗奴国とは奴国、つまり筑紫平野で挙兵した。

狗奴国は緒戦で
堅牢な高祖山に陣取る伊都国(邪馬台国の首都)を落とすことができず、
壱岐対馬、そして朝鮮半島南部からの邪馬台国援軍によって逆に
筑紫平野から筑後へと押し出された。

最後の最後、魏志倭人伝の頃には、ひょっとしたら熊本まで追い詰められていたかもしれない。

749 :
日本@名無史さん
2017/03/13(月) 20:47:24.99
 
>>747
>これは倭国大乱の後半、3世紀に入ってからの話で、
>狗奴国とは奴国、つまり筑紫平野で挙兵した。

ここは根拠なし。
そもそも大乱とは王位を争うこと。
熊本と言うくらいだから、そもそも狗奴国は熊本にいた。
熊本は生産力の高い土地だからね。

760 :
日本@名無史さん
2017/03/13(月) 21:57:16.81
 
>>747
>>751
伊都へ乱入してきた狗奴国によって高祖山に押し込められた伊都国王アマテラス
伊都も奴国も大混乱となり、倭国大乱が発生した。

倭国大乱を収めるため、
張政の発案により、邪馬台国の権威発揚のため八咫鏡を作らせた

高天原へ乱入してきたスサノオによって天岩戸に押し込められたアマテラス
高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍が発生した

これを収めるため、
思金神の発案により、八咫鏡を作らせた。

伊都に攻め込んだ狗奴国兵は、
田の畔を壊して溝を埋めたり、
御殿に糞を撒き散らしたり、
機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落としたり、
服織女は梭が陰部に刺さって死んでしまうようなことをされたり、
数々の乱暴を働いた。

さすが日本国初の正史。
神武東征と同じく、なかなか詳細な記録を残してある。

748 :
日本@名無史さん
2017/03/13(月) 20:45:15.15
 
狗奴国が倭国大乱の前半戦において、伊都国を押し込めていた時期があるとしたら、
ひょっとしたら公孫氏が出現する直前に、
曹操への朝貢に成功していたかもしれない。

曹操は狗奴国が倭国を制圧すると期待して、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を下賜した可能性がある。
そしてその時期はまだ魏を建国していないので、
狗奴国王は、漢倭奴国王の印で外交したことになる。

だが、じきに邪馬台国が形成逆転して、
3世紀の最終局面で倭国代表として朝貢することができたので、

魏としては、自国(魏)の国益を重視して、
長期の国交が確実となった同盟国邪馬台国との関係だけを正史に残して、
狗奴国とのほんの一瞬の接触は消去した可能性がある。

755 :
日本@名無史さん
2017/03/13(月) 21:07:01.95
 
司馬懿が公孫氏を滅ぼしてから、帯方郡を介して
朝貢するまで半年無いんじゃないか?
意思決定を九州でやらなきゃ間に合わんよ
781 :
日本@名無史さん
2017/03/14(火) 22:59:11.44
 
平原1号

上部の構造物は破壊された模様

802 :
日本@名無史さん
2017/03/16(木) 09:23:16.98
 
伊都国には世々王もいたし、一大率もいた。帯方郡の事務所もあった
郡家、郡衙、国府、城下町、県庁所在地といったイメージだろう。
803 :
日本@名無史さん
2017/03/16(木) 09:25:26.64
 
伊都国というからには、
後世、国府ぐらいは置かれた好地だろう。
818 :
日本@名無史さん
2017/03/16(木) 18:58:55.71
 
卑弥呼とかどうでもいいんですw
弥生時代のガラス製品といえば、ペルシャ、もしかするとローマ帝国すら
意味するわけですよ
だが、ペルシャやローマで勾玉作るわけないでしょ?w
そんな形知らないんだから、現代日本人でさえ意味わからないんだから
従ってそれは輸入品じゃない
そして、この時代から何千年、何千年前の縄文時代ですよ?
遡ると・・・東北に三内丸山遺跡が確認されるわけです
そこでは、黒曜石を国内から調達してたわけです、船で、海上交易です
後に、江戸幕府が京都・大阪と江戸湾を介して海上交易してましたよね?
縄文時代つまり、一万年以上前から日本列島ではこの列島を利用しまくっていた
姿が思い浮かぶ、それは海上輸送という手段で
糸島もきっとそうだったんだろうと思う
857 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 10:04:13.32
 
好字令以前はチクシは三文字だったはず。だったらもともとはツクシだな
860 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 12:46:38.46
 
>都斯麻国(つしまこく、対馬)を経て大海に出、
>東に一支国(いき、壱岐)、竹斯国(ちくしこく、筑紫)、
>また東で、秦王国(筑・豊?)へと至る。

オヨヨ、糸島は素通りじゃないか。。。。

862 :
日本@名無史さん
2017/03/18(土) 15:20:10.02
 
んじゃ記紀も、
畿内訛りで書かれているってわけか、、、、さもありなん。
879 :
日本@名無史さん
2017/03/19(日) 07:04:23.00
 
持衰を雇ったんだよ
あと水先案内人もな
880 :
日本@名無史さん
2017/03/19(日) 09:57:33.25
 
>持衰を雇ったんだよ

持衰は倭人伝にのみ記載された倭人の祈祷師

先進国である魏の、しかも皇帝からの公式使節が、
わざわざ持衰を雇うはずも無い

890 :
日本@名無史さん
2017/03/19(日) 13:44:51.21
 
どちらにせよ方位を担当したのは倭人だったわけで
細かい進行方向は倭人に任せて、
魏使は太陽の方角を東と考えて記録を残した。

夏至の太陽は30度も北寄りなので、
魏使の記録は全て南寄りとなったのであった。

以上。

909 :
日本@名無史さん
2017/03/19(日) 21:16:03.53
 
倭人伝によれば狗邪韓国のピンポイントだけ倭国
半島南部のほとんどは倭国じゃないだろうな

 

 

 

引用元:http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488201170/

 

 

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